創立50周年にあたり
創業者である亡き父(望)から2代目として会社を引き継ぎ、お蔭様で我が社も幾多の試練を乗り越えて成長を続け創立50周年を迎える事が出来ました。 これまで我が社を支えて下さった皆さんは方に心より感謝申し上げます。
一貫して物流業を営んで来ましたが創業当時から配送形態を環境に応じて変化させる事で厳しい時代の幾多の波を乗り越えて今日まで歩んで来ました。
一貫して物流業を営んで来ましたが創業当時から配送形態を環境に応じて変化させる事で厳しい時代の幾多の波を乗り越えて今日まで歩んで来ました。
物流は社会にとっては絶対に必要なインフラですが、同時に運送業は人間の管理が難しく危険が伴い、競争も厳しく付加価値を見出しにくい面も有ります。
そこで『お客様に必要とされる無二の価値ある存在』である為には何が大切なのかを追求して参りました。安全輸送の為にトラックの性能は徐々に進化して来ましたが、それよりも我々のサービス業としての真価が大きく問われるのはドライバーの質の向上と感じています。運送業ではドライバーがトラックに乗せた荷物を安全に運ぶのはもちろんの事、その積み下ろしにおいて彼等がお客様と接する時間はサービス業として非常に重要で有り、物流業として厳しく評価されます。この為に人材の育成が如何に重要で有るかは言うまでも有りません。我が社ではドライバーの運転技術や荷扱い技量の向上とともに、常に働く事を通じて人間としての資質の向上を図ることに注力して来ました。このためには従業員が働く事について充実感や安心感を持てる環境作りこそが大切で有ると思っています。
そこで『お客様に必要とされる無二の価値ある存在』である為には何が大切なのかを追求して参りました。安全輸送の為にトラックの性能は徐々に進化して来ましたが、それよりも我々のサービス業としての真価が大きく問われるのはドライバーの質の向上と感じています。運送業ではドライバーがトラックに乗せた荷物を安全に運ぶのはもちろんの事、その積み下ろしにおいて彼等がお客様と接する時間はサービス業として非常に重要で有り、物流業として厳しく評価されます。この為に人材の育成が如何に重要で有るかは言うまでも有りません。我が社ではドライバーの運転技術や荷扱い技量の向上とともに、常に働く事を通じて人間としての資質の向上を図ることに注力して来ました。このためには従業員が働く事について充実感や安心感を持てる環境作りこそが大切で有ると思っています。
また我が社のような小さな規模では単独で出来る仕事の領域は限られてしまいますが、お客様の様々なニーズに何とか応じるべく常に同業者の協力体制も築き仕事の幅を広げて参りました。下記を我が社の大きな二本柱としています。
1.小ロット化して鮮度を重視する為リードタイムも短くなった食品配送の細かなニーズに対応するべく山梨県の周辺各地に中継輸送のネットワークの構築。これにより取れたての様々な中小ロットの生鮮食料品等の県外各地への当日の安心配送を可能にしています。
2.北海道~九州をインターネットで結ぶ全国1600の物流業社で構成する信頼おける協同組合組織への加入。
これにより適正コストでスピーディーに遠距離また遠隔地での輸送効率を上げる事が可能になりました。
これにより適正コストでスピーディーに遠距離また遠隔地での輸送効率を上げる事が可能になりました。
日本全体が少子高齢化を背景に労働力不足が深刻な社会問題となり、幸せな働き方が問われる時代にあります。私は物流業を通じて、そこで働く事で社会に関わり貢献する幸せと安心を感じる事が出来る社風を築いて行く事を目標としています。 そして、この事こそが会社が社会に存続する最大の使命と考えています。
会社も人間と同じように寿命が尽きる時は有ると思いますが、我が社が社会に必要とされ続け、そこに働く人間達の支持が有り続ければ末永く生き続ける事が出来ると思います。これからも社会の一員としてルールに従い、必要とされながら、そこで共に働く事に幸せを感じられる正直で温かい会社を目指し続けたいと切に思うところです。
会社も人間と同じように寿命が尽きる時は有ると思いますが、我が社が社会に必要とされ続け、そこに働く人間達の支持が有り続ければ末永く生き続ける事が出来ると思います。これからも社会の一員としてルールに従い、必要とされながら、そこで共に働く事に幸せを感じられる正直で温かい会社を目指し続けたいと切に思うところです。
会社のあゆみ
会社の出来事 | 社会の出来事 |
昭和 36年 甲府バルブ工業(株)輸送部として発足 38年 桜田運送(櫛形町)を買収 40年 古屋運送(甲府市)を買収 43年 6月両社を合併。 社名を「株式会社親和運輸」として発足 (初代社長 植松望) 46年 本社を甲府市里吉町より現在地へ移転 49年 甲府市場営業所(鮮魚の配送)開設 (平成6年頃撤退) 58年 (株)キトーの輸送窓口、 販売特約店として取引が始まる(後に解消) 61年 アートコーヒー山梨工場と取引開始 62年頃 紀文食品(上信越向け)取引開始 | 昭和 36年 横浜マリンタワー開業。 全国発の自動車専用道路誕生(京葉道路) 38年 アニメ「鉄腕アトム」放送開始 40年 いざなぎ景気 43年 三億円強奪事件発生、郵便番号精度実施。 霞が関ビル完成。週刊少年ジャンプ週刊。 日本のGNP世界2位に 46年 沖縄返還協定調印。 カップヌードル発売。TVのカラー化 49年 セブンイレブン1号店。 戦後初のマイナス成長・エネルギー危機 58年 東京ディズニーランド開園。 任天堂ファミコン発売 61年 東北自動車道全線開通 JR民営化 ドラゴンクエスト発売 62年 東北自動車道全線開通 |
平成 3年 現在の社屋完成。 5年 市場営業所を閉鎖し本社に統合 6年 共同組合物流ネットワーク山梨設立 日本ローカルネットワークシステムに加入 7年 3月静岡営業所開設。 紀文・他企業の静岡県内配送業務を開始 (のちに地元のアムトラックスに業務委託) 10年 3月冷蔵倉庫完成。 紀文食品物流山梨デポとして本格稼働 7月 (株)いつみ家との取引スタート 14年 丸市倉庫(株)との取引開始 16年 現社長就任 19年 ドライブレコーダーを全車に設置 23年 社長が白血病により長期入院 26年 社長白血病再発により再入院 28年 旧休憩室撤去、新休憩室設置 29年 車庫の改修工事と敷地内舗装工事 事務所机・椅子・カウンター等入替 30年 会社創立50周年 | 平成 3年 雲仙普賢岳大火砕流 5年 皇太子・雅子さまご結婚 6年 関西国際空港開港、松本サリン事件 7年 阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件 PHSサービス開始。 九州自動車道開通 10年 長野オリンピック、Windows98発売 明石海峡大橋開通 14年 ソルトレイクシティオリンピック 16年 新潟中越地震。アテネ五輪 19年 第一回東京マラソン 23年 東日本大震災、2011年の漢字「絆」 26年 甲府100年に1度の大雪 28年 熊本地震発生 29年 東芝経営危機。タカタ経営破綻 トランプ大統領誕生 30年 西日本豪雨、北海道胆振東部地震 大阪北部地震 |
昭和43年6月1日に創業者である植松望 (現社長の父) が植松栄三 (現社長の祖父)の創業した甲府パルプから輸送部を切り離し桜田運送 (昭和38年買収 櫛形町) と古屋運送(昭和40年年買収 甲府市) の免許を買い取り運送業として独立したのが当社の始まりです。 甲府パルプが工場を閉鎖してレジャー産業に舵を切った事がきっかけでした。 独立当初は甲府市里吉でウナギの寝床のような細長い土地に2台のトラックと櫛形町十五所から
スタートし、 昭和46年には両社を合併し、 社名を「株式会社新和運輸」 として櫛形農協共撰所(現JAこまの) に隣接する現在地に移転しました。 以来この地に根ざし事業を行っています。
創業当時は東洋カーボンと青果物の運送がメインで車両も平ボデーの車両が中心でした。 その後、 甲府中央卸売市場 (国母) 開設に伴い昭和49年10月に水産部門の配送センターとして市場営業所を開設し、 食品の2t車を導入しました。 昭和58年11月には(株)キトーが川崎市から山梨への本社移転するにあたり、 前社長がキトーの社長と同級生であったこともあり県内外への輸送窓口を任されました。 その後キトー製品販売特約店としても指定されるなど、 少しずつ荷主や業務の幅を増やしていきました。 昭和61年にはアートコーヒーとの取引が開始しました。 一般貨物では現在メインの荷主となっています。
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平成に入ってからは、平成7年に静岡県島田市に静岡営業所が開設したことに伴い、 以前より取引のあった紀文食品 他企業の静岡県内配送業務が開始されました。 その後、 平成10年に紀文食品からの要請で本社構内に冷蔵庫を設備したことにより紀文食品物流の山梨デボとして本格稼働しました。 この配送網を利用して同年7月には(株)いつみ家との取引が開始し、 現在食品部門の柱となっています。 平成14年4月には丸市倉庫(株)との取引も開始するなど、徐々に荷主も増えてきました。
共撰所に隣接しているということで、 夏の時期は特産品の桃の東海筋への配送も行っていましたが、 年々出荷量が少なくなり採算が合わないため平成28年を最後に農協の仕事からは撤退しました。 その後は農業法人から出荷されるレタスなどの高原野菜の輸送が多くなりました。
平成30年の現在は紀文食品の山梨 長野の配送拠点としての役割を担いつつ、 食品、 青果物、 素材、 製品を関東中心に定期便、 スポット便の配送を行っています。